第37回 産経国際書展 入賞・入選者

日本における書道の歴史について》

 

●書道の萌芽

文字の起源は不明であるが、漢字についての古い例としては、文字が甲骨や石等に刻された ものや青銅器等の金属に鋳込(い こ ) まれたもの、簡牘 (かんとく)  や紙に書かれたもの等が現存している。

それら の文字が、中国から伝来し、日本の書道の礎を作ったとされる。 日本に現存する、文字が鋳込まれた、あるいは、刻された例として、1世紀に作られたとさ れる「漢 委( かんのわの)  奴 (なの )国王( こくおう) 」金印や、6世紀頃の日本の地名や人名等を漢字で表記した銅鏡や鉄剣等の 金石文がある。また、7 世紀前半頃の「法  隆寺金堂( こんどう) 釈迦造像( しゃかぞうぞう )銘 」や「法 ほう 隆寺 釈迦三尊造像 (し ゃ か さ ん ぞ ん ぞ う ぞ う )銘  」も その1つである。

一方、簡牘の一種である「木簡 (もっかん) 」は、近年、平城宮跡等から多く出土しており、当時を知る貴 重な資料である。木の札に墨で文字が書かれた木簡には、官庁の記録をはじめ、その時の生活 の記録等がされている。また、6世紀には、仏教が日本に伝わり、紙に経典の写しを行う写経 によって、仏教の普及が促されるとともに写経も盛んになっていった。

 

●和様と仮名の確立

平安時代前期には、王  羲 之 (おうぎし)の清らかな書を基本としつつも、顔真卿 (がんしんけい) の大らかで粘りのある力 強い書風等にも影響を受け、日本独自の書の基礎を構築していった「三筆」(空海、嵯峨天皇、 橘 逸  勢 )が登場した。

平安時代中期には、遣唐使廃止等で日本独自の文化様式である国風文化 が花開き、同時期には王羲之を基本としながらもどっしりとして丸みがある書風の小野道風( おののみちかぜ) を はじめとする「三跡(三蹟)」(小野道風、藤 原  佐  理( ふじわらすけまさ) 、藤 原行成(ふじわらのゆき なり)が登場し、この時代に和様( わ よ う)が大 成していった。

時を同じくして、和様の代表というべき仮名もこの時代に確立された。奈良時代には、漢字 の音や訓を充てて仮名のように読む万葉仮  名(まんようが な )が一般的になったが、万葉仮名は 1,000 字近く あったため、書きやすい字が残り、11 世紀の初めには 250 字程度にまで集約された。

そして、 字体も簡略化され、万葉仮名を崩した草仮名から仮名に発展し、万葉仮名から片仮名も生まれ た。10 世紀には、『古今和歌集(こきんわ かしゅう) 』等に見られる和歌の隆昌から仮名の発達を知ることができ、 連綿に行の変化を加えた仮名消息が現れ、11 世紀中頃には、『古今和歌集』の写本である「高野 切(こうや ぎれ) 」のような仮名の典型が誕生し、仮名の様式とともに葦手( あ し で) 等の仮名芸術の広がりが展開して いった。

後に「古筆 (こ ひ つ) 」と呼ばれる名品もこの時代に数多く誕生した。

なお、古筆の価値を構成 する1つに料紙6の装飾性がある。料紙には、原料を漉き上げただけではなく、染めたり装飾を 施したものがあり、料紙自体にも芸術性が表れている。 

 

●書流のはじまりと広がり

平安時代中期から、隆盛を誇っていた藤原行成を祖とする世尊寺流 (せそんじりゅう )に対し、藤 原 忠通(ふじわらのただみち) から始 まったとされる側筆(そくひつ )の力強さを見せる法性寺流( ほっしょうじりゅう )が平安時代末期から力を持ち始めた。

法性寺流 は、世尊寺流にも影響を与え、この2つの書流は区別のつきにくいものとなっていくが、世尊寺流は、世尊寺家が断絶するまで 500 年以上続いた。

法性寺流の後始まった、後京極 良経 (ごきょうごくよしつね)の書 風とされている後京極流は絵巻の詞 書(ことばがき)や写本に多く使われ、鎌倉時代中期の流行となった。こ れらの書風は、芸術性としての「美」を追求するというよりは形式的な「型」を意識したもの となっている。筆圧の強弱を極端に表した線質が特徴の藤 原定家(ふじわらのさだいえ)の書風(定家様 て い かよう)は、その代表 例である。

南北朝時代には、三跡を重んじるとともに世尊寺流を学び、和歌に長じ書道に秀でた尊円親王(そんえんしんのう)から新たな書風が生まれ、後の時代(江戸時代)に御家流 (おいえりゅう)と称される 青蓮院 (しょうれんいん) 流が創始された。

 

●墨跡の登場

鎌倉時代中期に、南宋文化が移入されるようになると、幕府が禅宗を重用し、禅僧の来日と 留学が盛んになった。当初は参禅修行の証明という形で師匠から弟子に伝えられた書であった が、その後に書跡そのものが尊ばれるようになると、禅僧の書は、自由剛健な書風で「墨跡( ぼくせき) 」 と呼ばれる「書」の一分野として確立された。臨済宗建仁寺派の栄西、大徳寺派の宗峰妙超 (しゅうほうみょうちょう)等の禅僧も、宋時代の書に影響を受けた逞しく力強い書を残している。

 

●書の鑑賞

平安時代から鎌倉時代にかけての書の名品である古筆は、室町時代には、贈答や売買の対象 になりはじめ、安土桃山時代に茶の湯が流行すると、掛物 かけもの としても珍重された。江戸時代には 古筆切(こひつぎれ) が収集されるとともに、軸装や手鑑(て かがみ)に仕立てられ、鑑賞する書跡や鑑賞の形態も多様化していった。

また、墨跡も室町時代末期に茶の湯が普及していくとともに、茶の第一の道具ともいわれ、 茶の世界に欠かせないものとなっていった。

 

●江戸時代における書の発展

江戸時代に、青蓮院流の流れを汲む御家流が幕府の公用書体となり、庶民を含む幅広い層に 普及した。そのような中、江戸時代前期を中心に、「寛永の三筆 (さんぴつ )」(本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)、近衛信尹(このえのぶただ) 、松花堂昭 乗 (しょうかどう しょうじょう)が活躍した。装飾的な書を専らとした本阿弥光悦、定家様を基として豪快で力強い仮名 を特徴とした近衛信尹、青蓮院流と大師(だ い し) 流を基本としながら、古筆等のエッセンスを盛り込んでいる書表現が特徴の松花堂昭乗は、いずれも戦乱の世の後、停滞していた書、型に はまっている書に新風を巻き起こすこととなった。

一方で、幕府の儒学政策を背景に宋・元・明の時代の書家に影響された唐様( からよう)が流行した。御家流に見られるように和様は様式・形式化する傾向があり、誰もが同様に触れやすいという反 面、新しい書風を生み出しにくいものであった。対して、唐様書は儒学者や医者等、漢字に精 通した人たちの中で、新鮮で独特な書風として受け入れられた。特に、修禅に裏付けられた雄健闊達な書風である「黄檗 (おうばく)三筆」(隠元隆琦(いんげんりゅうき)、木庵性瑫(もくあん  しょうとう) 、即非如一(そくひにょいち)の登場は、唐様が流行する 礎を築いた。

そして、江戸時代後期には、書を職業とする専門書家が現れ、大いに活躍した。中でも、「幕 末の三筆」(巻菱湖まきりょうこ 、貫名菘翁 ぬきなすうおう 、市河米庵(いちかわべいあん)は晋唐の時代の書を尊重しながらも個性のある書を 表し、明治時代以降の書に影響を与えた。

 

●手習いの普及

江戸時代には庶民の教育機関として寺子屋が普及したことが知られるが、古くは中世末から 寺院において世俗教育が行われていたと言われる。寺子屋での教育内容は、読、書、算であり、 「手習 (てならい) 」が中心であった。手習は、手跡(しゅせき)を学ぶこと、手本を習うことであり、習字ともいい、書 写・筆写の練習、書道・筆道に精進すること等をいう。寺子屋では、「いろは」からはじまり、 基本となる漢字、単語等を書き習い、庶民生活必須の内容を集録した各種の往来物を教材とし た。手習は、古くから子弟・子女の教養の1つとされ、奈良時代には王羲之書法を重んじ、平 安時代は三筆・三跡の手本が珍重された。鎌倉時代になると貴族以外にも手習が普及し、武家 の子弟はもちろんのこと、寺院では庶民の子供を集めて教授した。室町時代には庶民の間に広 く流行し、習字という言葉もこのころから使われ始めている。手本の主流は青蓮院流であった。 江戸時代に寺子屋が普及すると、御家流が隆盛を極めた。

 

●近代の書風の成立と鑑賞形態の変化

明治維新以降、中国や西欧等の諸外国から日本に様々な文化が移入し、書道もその影響を強 く受けた。まず、書体等については、公用書体が御家流から漢字を中心とした唐様に変更され、 唐様が書体として広く用いられることになった。

明治 13 年(1880)には、楊守敬(ようしゅけい)が来日し、碑版法 帖(ひはん ほうじょう)が大量にもたらされたことで、臨書が多様化し、多くの書家が日本の伝統的な書法や筆法を基礎としながら、新たに金石学等の清の書学も学び、六朝(りくちょう)の書風を取り込んでいった。

特に日下部鳴鶴(くさかべめい かく) は多くの門人を有していたため、全国にその書風が伝わった。 このように、六朝の書風に倣うようになった一方、御家流は和歌等を嗜む皇族や公卿の中で 受け継がれていった。

また、古筆の研究が明治中頃より盛んに行われるようになり、明治 23 年 (1890)に結成された「難波津会( な に は づ か い) 」は、平安時代の仮名作品に関する研究を行う目的で組織さ れ、古筆そのものの研究が進められると同時に、古筆の書風を書表現に生かすような作品が制 作されるようになった。

また、「美術」という語が誕生したのも明治時代初期である。明治 10 年(1877)の第1回内国 勧業博覧会では他国の例に倣い「美術」の部が設けられたが、その中に「書画」が位置付けら れた。このように、博覧会への出品をはじめとして、日本に博物館や美術館が設置されて以降 は、それまでほとんど居室内での狭い空間で行われるしかなかった鑑賞が、広い展示空間での鑑賞へと移行した。このことに伴い、書家の発表の場も展覧会が主流となり、今日の活動の礎 が築かれていった。

 

●書壇の成立と展覧会活動

第1回内国勧業博覧会では「書画」として絵画と同じ分類であった書は、明治 23 年の第3回 内国勧業博覧会では「版、写真及書類」という分類となり、書と絵画は別に扱われるように なった。

これは書の独立というより、むしろ、美術としての地位を確立した絵画から切り離さ れた感が強く、書家に書の衰退の危機感を抱かせることとなる。そのため、書の奨励を求める 運動が盛んに行われたほか、書の奨励等を目的に書道団体が続々と創設され、書壇を形成した。

第二次世界大戦前の大東亜書道会に1本化されるまでに、書道団体が作られては、合併あるい は消滅が繰り返されたが、戦後には書壇が復活し、公募展を中心とした書道団体の形成へとつ ながった。

第二次世界大戦後に、書道団体の復興が盛んになってくると、展覧会開催事業がその活動に 位置付けられ、時代が下るにつれその比重が増していくこととなった。今日に繋がる主なもの として、明治 40 年(1907)に第1回文部省美術展覧会が開催されたこと、また、その後継ともい うべき日展において、書の部門が昭和 23 年(1948)に第5科に設けられたこと、同年に現在の毎日書道展の前身となる「全日本書道展」が開催されたこと等が挙げられる。 これらにより、書道が美術界においてもその地位を確立していくこととなった。 昭和 59 年(1984)には、第1回産経国際書会と第1回読売書法展が開催され、今日では、単一 の門流による社中展等、様々な規模での展覧会活動が行われ、書家の発表の場となっている。